裁判官の判断の可謬性→当人が認める誤りの不可避・制度の前提は判断力への信頼
1 裁判官の判断の可謬性→当人が認める誤りの不可避・制度の前提は判断力への信頼
裁判では、証拠のどれをどこまで信用するかが結論を左右します。もっとも法律は、その評価のしかたを細かく定めていません。評価は裁判官に委ねられていて、そこには幅があります。
委ねられているのであれば、判断が確かかどうかは裁判官の側の事情にかかります。本記事では、裁判官が誤ることがあるのかを、元裁判官と在官中の裁判官が書き残したものから説明します。
2 結論——冤罪事件では誤りが必ずある・最高裁判例にもミス・無謬性は幻想
はじめに、本記事で引く文献が述べていることをまとめます。
<裁判官の可謬性について文献が述べていること>
あ 誤りの不可避(誤ることはあるのか)
冤罪事件では、優れた裁判官が慎重に審理して出した結論でも、客観的に誤っていることが必ずある
い 上級審(最高裁なら誤らないのか)
最高裁判例にもミスがある→「最高裁判例にミスはない」という前提は疑うべきもの
う 制度の前提(無謬性に立っているのか)
無謬の制度はありえず幻想である=自由心証主義は裁判官の判断力への信頼に立つ
3 法が委ねるのは事実の評価|自由心証主義(民事訴訟法247条)(概要)
事実の評価が裁判官に委ねられていること自体は、民事訴訟法247条の自由心証主義として説明されます。瀬木比呂志氏は、かつては裁判官の恣意を抑えるために証拠の評価を法で縛る考え方が採られたことがあり、近代の民事訴訟法は裁判官の判断力を信頼して評価を委ねる形を採ったと述べています。
仕組みそのもの(247条の内容と、法が評価を委ねるもう一つの形である評価的要件)は別記事が扱います。本記事はここを前提として置くだけにとどめます。
4 誤りうることの承認=「神ならぬ人間」が真相に近づく仕事
裁判官の仕事がどういうものかについて、元裁判官の木谷明氏は、神ではない人間が、神以外には知りようのない事案の真相に近づくことを求められる仕事だと述べています。到達できるかどうかが初めから保証されていない仕事だという理解です。
裁判官の仕事=神ならぬ人間が真相に近づくこと
裁判官の仕事は、
「神ならぬ人間が、神以外の者には知りようのない事案の真相に近づくこと」
を求められるものであって、このような執務態度なくしては到底達成し得ない。
※木谷明稿『「裁判官の品位」とは何か―岡口裁判官処分問題に寄せて―』/『判例時報2392号』2019年3月p103
5 冤罪事件→慎重な審理でも客観的な誤りは不可避
そのうえで木谷氏は、誤りが避けられない場面があることを明言しています。とくに冤罪事件では、優れた裁判官が慎重に審理して出した結論であっても、客観的に誤っていることが必ずあるとしています。誤りを例外的な事故としてではなく、一定の割合で起きるものとして置いている点が重要です。
冤罪事件=慎重な審理でも客観的な誤りは必ずある
特に、冤罪事件などでは、いかに優れた裁判官が慎重に審理して出した結論であっても客観的に誤っていることは必ずあり、そういう場合、犯人でない被告人がその結論に納得することは絶対にない。
※木谷明稿『「裁判官の品位」とは何か―岡口裁判官処分問題に寄せて―』/『判例時報2392号』2019年3月p105
6 1審判決が覆る実際=「この結論はあり得ない」事件の存在
誤りうることは抽象的な可能性にとどまりません。控訴審で部総括を務めた中西裁判官は、座談会で次のように述べています。
控訴審から見た1審判決=この結論はあり得ない事件も間々ある
裁判所から見ると、1審判決を見て、この事件でこの結論はあり得ない、1審判決の理由は成り立たないというような事件も間々あります。
※『裁判官に聴く 訴訟実務のバイタルポイント No15・完 控訴審』/『ジュリスト1529号』2019年3月p53
同じ座談会では、原判決を読んだときの受け取り方も語られています。
原判決を読んだときの受け取り方
裁判官も原審の判決を読んで、ここはどうかとか、少し論理展開がおかしいけれども大丈夫かなどと思うことがあります。
※『裁判官に聴く 訴訟実務のバイタルポイント No15・完 控訴審』/『ジュリスト1529号』2019年3月p50
7 最高裁判例にもミス→「無謬の制度などというものはありえない」
誤りうるのは下級審に限りません。瀬木比呂志氏は、最高裁判所調査官を務めた経験を踏まえて、学説の多くが批判している判例について次のように述べています。
学説が批判する判例=論点の理解が不十分な例も一定程度ある
学説の多くが批判している判例にも、実は、最高裁が意識的にそういう判断を選んだというよりは、論点に関する理解が不十分なためにそういう判断をしてしまったという例は、一定程度あると考える。
※瀬木比呂志著『民事訴訟法 第2版』日本評論社2022年p613
そして、制度の側についても次のように述べています。
無謬の制度はありえない=幻想
無謬の制度などというものはありえない。
それは幻想である。
※瀬木比呂志著『民事訴訟法 第2版』日本評論社2022年p613
8 誤りを避けるために行われていること=全能力の投入・排斥する判決文への労力
誤りうることを前提にしたとき、裁判所の側で何が行われているのかも語られています。木谷氏は、冤罪のおそれがある事件について、裁判官にできることを次のように述べています。
裁判官にできること=全能力・全精力の投入
そういう事件で裁判官にできることは、
「誤った結論を回避するために、全能力・全精力を投入して、無辜を処罰しないように最大限の努力をすること」
以外にない。
※木谷明稿『「裁判官の品位」とは何か―岡口裁判官処分問題に寄せて―』/『判例時報2392号』2019年3月p105
争いがそれほど深刻でない事件については、別のことを述べています。
深刻でない争い=納得させることは努力次第で可能
しかし、争いがそこまで深刻でない場合には、敗れた当事者を
「あの裁判官が慎重に考えた上で出した結論なのだから不満はあるがそれに従うことにしよう」
という気持ちにさせることは、努力次第で不可能ではない。
※木谷明稿『「裁判官の品位」とは何か―岡口裁判官処分問題に寄せて―』/『判例時報2392号』2019年3月p105
9 当事者・代理人の構え(筆者見解)
ここからは出典のない筆者の見立てです。筆者は、判断が誤りうることを前提にすると、代理人の仕事は誤りの余地を減らすことに尽きると見ています。
見通しは確率であって神託ではなく、依頼者にお示しする見込みも幅を持ったものになると思われます。記録の読み方・争点の絞り方・立証の順序を工夫することで、その幅を狭める余地は残っていると考えています。
10 おわりに
本記事では、裁判官が誤ることがあるのかを、元裁判官と在官中の裁判官が書き残したものから見ました。誤りは例外的な事故ではなく、一定の割合で起きるものとして語られており、制度の側も無謬性を前提にしていません。何が判断に影響しうるのかは、別記事で扱います。裁判官の判断に影響しうるもの→報道・当事者の言動・裁判官自身の内面
本記事は一般的な説明です。個別の事案にそのまま当てはまるとは限らず、一見似ている事案でも、事情が異なれば結論は異なります。個別的事情により、法的判断や主張として活かす方法、最適な対応方法は違ってきます。本記事でご説明したものと同様の問題に直面されている方は、みずほ中央法律事務所の弁護士による法律相談をご利用くださることをお勧めします。
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